2012年10月3日水曜日

「気流の鳴る音」 1:問い



 まず、本書の主張について私の問いに関する部分だけを抽出して要約する。

2012年8月14日火曜日

『関係する女 所有する男』 3:コメント



 色も形も違うけれども、疑問符が各担当者の胸の内にただよっているように思う。確かに本書は「所有と関係とは何か」という新たな謎かけで締め括られており、その解法を探って読者が試行錯誤することは著者の願いどおりだろう。ただしこれらの疑問符は著者の意図する以前の場所でひらひらと彷徨っている(時には蝿よろしく叩き落とされている)のかもしれない。

2012年7月23日月曜日

『関係する女 所有する男』 2:応答 B



「差別と区別は違う」――私が常々思っていたことだ.男女を分けるのはよくない,と人は言う.しかしどんなに頑張っても,私が子どもをお腹から生むことは出来ない.そこには厳然たる事実として所謂「女性」との違いが存する.そのような違いを違いとして認識することは「差別」ではなく,最低限必要な「区別」であり,そのような区別さえも無視することは行き過ぎであろう.強引な差異化(差別)も暴力ならば,違いを無視した強引な同化もそれ同様,或いはそれ以上に暴力的なのである.だが問題は,どこからが差別で,どこからが区別にあたるのか―この1点につきる.というのが,私自身の考えである.

2012年7月22日日曜日

『関係する女 所有する男』 2:応答 A



 何を目的に、何を最終的に述べるために書いたのかと問う時、著者が何に対抗しようとしたかと考えることは有用であるように思われます。何に対抗するために書いたのか、その敵の主な一つは、ジェンダーを生物学的要素に還元しようとする論者たちでしょう。男性らしさ、女性らしさというものを決定づけているのが生まれながらに持ち合わせた身体(脳)だとしたら、それは動かしようのない個人の属性から演繹されて決まるということなります。これと対比して、関係原理、所有原理という観点からジェンダーを考えることの特徴はなんでしょうか。

2012年7月8日日曜日

『関係する女 所有する男』 1:問い



 本書に対しての私の問いは以下のようなものになります。
 『本書を通して著者が最終的に述べたかったことは何なのか』
身も蓋もないような問で申し訳ないのですが、私には本当にわかりませんでした。この本は何を目的として、どのような主張を盾に書かれた本なのでしょうか?
率直にほかの参加者の方の感想を聞きたく思い、以上のような問を持ち出す結果になりました。

以下、私のテクスト解釈も含めつつ、問の根本となる「どこがどのようにわからなかったのか」の説明をさせてください。

2012年6月11日月曜日

『記憶/物語』p75~p123 3:応答 B



コメント、というより僕の思考の履歴を文章にあらわれるままにメモした感じです。
まず、問い応答のやりとりについてコメントを。
ただし、問いの立て方、そしてそれに対する応答の仕方が適切かどうか、という問題は、僕にとっては(最近は)おもしろくないのであまり言及しません。また、テクストを読みましたし、面白いところつまらないところもあったのですが、既に各々理解をまとめて頂いているので、ここでテクストの細部に改めて言及しないことにします。
僕の思考のきっかけとなったのは、応答の際に応答者がメールで言及した以下の文章です。(ブログ本文では出てこないので紹介します)

2012年6月10日日曜日

『記憶/物語』p75~p123 3:応答 A



1.    他者の声その働き

まず、「シャティーラの4時間」における他者の存在ですが、私はこれを〈出来事〉の分有に必要不可欠である「受動性」を他者にもたらし、彼らの生の攪乱を果たすものだと読み解きました。

 ジュネの「シャティーラの4時間」を論じる箇所において、筆者・岡は以下のように述べています。

2012年6月1日金曜日

『記憶/物語』p75~p123 2:応答



1

「他者とは誰なのか?」という問いは、(ジュネの「シャティーラの4時間」の例に限らず)この第II部を貫く大きな問いです。

他者とは誰なのか?
その問いに答える補助線として筆者は「単独性」という概念を持ち出します。

〈出来事〉の記憶としての証言を「私」が受けとるということ、それは、このような時間的、空間的な単独性、そして「私」という人間の単独性にどこまでも貫かれている。

2012年5月13日日曜日

『記憶/物語』p75~p123 1:問い



 私が本テクストに対し提示したい問い、それはジャン・ジュネの「シャティーラの4時間」を紹介している箇所(p95,98)で、岡真理が言及している“他者”とは何か/誰かということ、そして、この箇所について本書全体の論旨を踏まえた上でどのように解釈すればよいのかということである。

 問いの説明に入る前に、まず、本書の主張を私なりに解説しつつ要約してみたい。本書を貫いているテーマは、他者の〈出来事〉の記憶を分有するとはどういうことか、それはいかにして可能か、ということである。

2012年4月14日土曜日

『記憶/物語』pⅲ~p74 3:コメント

 [1]
とりとめのなく行き来する文章構成に紛れてわかりにくいですが、本書の特に第1部で、筆者には二つの特徴的なアプローチを一貫しています

[1-1]
一つは戦争と暴力をテーマとすること。パレスチナ難民の虐殺、ホロコースト、「慰安婦」、「アデュー」、スピルバーグの映画、湾岸戦争、傷痍兵、『ワンダフルライフ』にも戦死した男のことが取り上げられます。これはもちろん、本書の議論の射程が、戦争と暴力の問題に限られるということではなく、筆者の関心がそこにあり、かつできるだけ相互に参照可能にするため、かなり注意深く選んでいるという印象を受けます。

2012年3月21日水曜日

『記憶/物語』pⅲ~p74 2:応答

さて、まず「記憶の分有は可能か、可能だとしたらどの程度のレベルで可能なのか」という問いについてです。1の担当者が書いているようにこれは本書の問いそのものなので、まだ本書の途中までしか読んでない段階では暫定的にしか考えられないということは断っておきます。
岡真理のこの問いにおいても、1:問いの担当者のこの問いにおいても、“記憶”という語はともにトラウマ的、あるいは暴力的出来事の記憶のことを指しているわけですが、一旦もっと広い意味での記憶一般について考えてみたいと思います。

2012年3月4日日曜日

『記憶/物語』pⅲ~p74 1:問い


皆さま,こんにちは.岡真理『記憶/物語』で《はじめに~部(pⅲp74)》の問いを担当することになりました.よろしくお願いします.
この勉強会は皆で同じ本を共有しているわけですが,当り前ですが一人ひとり読み方も感じ方も違うと思うので,僕がどのような読み方をしたのかに触れつつ,問題を立てたいと思います.ですので少し長めになってしまいますがお付き合い頂ければ幸いです.
まず論点の整理をするために,岡のことば遣いについて確認をしたいと思います.岡は〈出来事〉(この〈〉は,「主体的に体験される出来事」として,直接的には体験されない客体的出来事と区別し
ているのではないかと思います)の分有可能性という切り口で,記憶と物語の連関について議論を展開しています.自らが体験した唯一無比の〈出来事〉の記憶を,どのようにして自分ではない他人と分有することができるか(あるいは,分有することは果たして可能か).また,その役割を担い得るのが「物語」であるわけですが,ここで言う「物語」は「小説」という表象形式と一線を画すものとされています.