皆さま,こんにちは.岡真理『記憶/物語』で《はじめに~Ⅰ部(pⅲ~p74)》の問いを担当することになりました.よろしくお願いします.
この勉強会は皆で同じ本を共有しているわけですが,当り前ですが一人ひとり読み方も感じ方も違うと思うので,僕がどのような読み方をしたのかに触れつつ,問題を立てたいと思います.ですので少し長めになってしまいますがお付き合い頂ければ幸いです.
まず論点の整理をするために,岡のことば遣いについて確認をしたいと思います.岡は〈出来事〉(この〈〉は,「主体的に体験される出来事」として,直接的には体験されない客体的出来事と区別し
ているのではないかと思います)の分有可能性という切り口で,記憶と物語の連関について議論を展開しています.自らが体験した唯一無比の〈出来事〉の記憶を,どのようにして自分ではない他人と分有することができるか(あるいは,分有することは果たして可能か).また,その役割を担い得るのが「物語」であるわけですが,ここで言う「物語」は「小説」という表象形式と一線を画すものとされています.
ているのではないかと思います)の分有可能性という切り口で,記憶と物語の連関について議論を展開しています.自らが体験した唯一無比の〈出来事〉の記憶を,どのようにして自分ではない他人と分有することができるか(あるいは,分有することは果たして可能か).また,その役割を担い得るのが「物語」であるわけですが,ここで言う「物語」は「小説」という表象形式と一線を画すものとされています.
「物語」は、共同体というひとつの小さな世界のなかで,その共同体に帰属する者たちによって共有されるのが普通だ.そして「物語」はたいてい,話者の
母語によって語られる.それは同時に、聞き手の母語でもある.地域が異なれば,「物語」を語る言葉も異なるだろう.他方,小説は,ひとつの同じテクストが,
地域や共同体の境界を超え,階層やジェンダー,そして,言語をも異にする,さまざまに異なった異質な読者によって読まれる点に特徴がある.(p.11)
と,本書ではこのように区別されています.
僕たちは普段「物語」と「小説」を明確に区別しませんし,この分類はちょっと受け入れがたいものでした.「物語」としてイメージしやすいのは,「白雪姫」「シンデレラ」といったものですが,これこそ「地域や共同体の境界を超え」た究極的な作品であり,その点において岡の分類に従えば「小説」ということになってしまいます.また、第1章で岡は「小説」を「映画」に置換することができそうだと述べています(p.14)が,別の箇所では「映画」や「小説」を「物語」として混同しています.したがって,岡にとって重要なのは上の引用より少しあとの部分,近代以降神の衰退によって可能になったメタ・レベルの視点(あるいは「国家」の視点)での物語と,非メタな次元(主観的と言い換えてもいいかも)での物語の区別なのだと思います.それでもっと言うと,「ナショナルな」物語として,〈出来事〉からその暴力性やそれぞれの〈出来事〉の個別性を排除し一つの物語へ統一していくその営為,これを批判すべくこの区別を持ち出したと言ってもよいでしょう.したがって本書でいう「物語」とは,〈出来事〉を表象する試みの総体と捉えた方がよさそうです.
では,その試みの一体何が問題なのか?
本書では以下のような説明がなされていると思います.つまり,従軍慰安婦の話に出てきたように,〈出来事〉の記憶がはらむ暴力性(〈出来事〉自体「暴力的」だが,それが本人の意思と無関係に襲うという意味でも「暴力的」である.そして,〈出来事〉を証言することそれ自体もまた苦痛を伴うという意味で「暴力的」だ)によって,自らの物語として言葉では語りえない記憶が存在する.自らの意志に反して襲いかかる〈出来事〉の他者性を排し,自己の物語を保存する試みは,そのまま戦後社会における他者の存在の否認,〈出来事〉の存在の否認というナショナルな欲望とリンクする,このようなかたちで要約できるのではないでしょうか.ただし,ミクロレベルでの「物語」の表象の限界と,マクロレベルでの「物語」がナショナルに統合される過程とは,本書では密接に関連するような書かれ方をしていますが,これには論理の飛躍があるような気がしており,あくまでメタフォリックなレベルにとどめるべきでは?とも思います.つまり、〈出来事〉の暴力性を淘汰する歴史修正主義の問題と,個々人が〈出来事〉の〈出来事〉性をリアルに語りうるかという問題とは,別個に論じられるべきではないかと思うのです.ただしこの辺りは僕の理解も怪しいので,以降のphase担当者様は(本来のphaseの主旨とはズレますが)問題点があれば指摘くださると幸いです.
さて,ここまできてやっと僕の問いに入るのですが,前置きが長々となってしまいすみません.この著作は2000年の出版であり,90年代という時代を背景にした書物であることに間違いはなさそうです.しかしそれにしては,90年代日本を象徴する大きな〈出来事〉が,きれいさっぱり抜け落ちているように思えます.それが一連のオウム事件です.特に地下鉄サリン事件では多くの人が耐えがたい記憶を植えつけられ,現在もその記憶を生きているという点で従軍慰安婦の議論と構造的にもよく似ています.これは著者の学問的背景(第三世界フェミニズム思想)も多分に影響しているでしょう.村上春樹の『アンダーグラウンド』では,サリン事件被害者の一人ひとりの証言をインタビュー形式で保存する試みがなされています.
…私は今まで、その事件のことをなんとか忘れようとしてきました。でもそういう恐さって、いくら忘れようと思っていても忘れられないんです。自分が
被害にあったという記憶は、もう一生消えないんじゃないでしょうか。忘れよう忘れようとするから、逆に出てきちゃうのかもしれない――そう思うようになりま
した。
…狭いところに入るとときどき身体が立ちすくむことがあります。とくに地下――地下鉄とか、地下から入るデパートとか。電車に乗ろうと思っても、足がすく
んで動かないんですよ。そういうのが今年の二月くらいからだんだん出てくるようになりました。事件のあと、もう一年近く経過してからです。そんなとき、「人には
わかってもらえないだろうな」という気持ちはあります。会社でも、まわりのみんなはすごく気をつかってくれるんです。家族も優しくしてくれます。でもほ
んとうの恐さというのは、誰にもわからないですよね。「わかってほしい」とも思わないけれど……。
(日比谷線で事件の被害にあった女性の証言,村上春樹『アンダーグラウンド』講談社文庫,p.348-349)
こんな風に,サリン事件の被害者も絶えず生起する当時の記憶に悩まされ,かつその表象不可能性にある種の諦めを感じています。あるいは,阪神淡路大震災の記憶もまた同じ構造だろうと思います(著者はなぜこの二つを避けたのか?この問題は著者にとって「語りえぬもの」だったのか,それとも「語るに足らぬもの」だったのか.これも私の疑問の一つです).
そして,最終的に生成される私の問いは,著者も限界を感じているこれら記憶の分有は可能なのかという点(可能だとしたらどの程度のレベルで可能なのか),そして著者はこれらの記憶を分有「すべき」ものとして(文脈的に)語っているけれども,それらは本当に「すべき」ものなのか,だとしたら一体いかなる理由または水準で,《分有すべき「記憶」》という判定は可能になるのかという点になります.前者の問いは著者の問いとも重なるのでアレですが,後者の問いは著者の言説の根幹にあると感じていて,にもかかわらずそれについては触れられていません(少なくとも私の読解では).おそらくそれは著者にとっての「当り前」なのでしょうが,その「当り前」はいったいどこから来るのか,何が源泉なのか.これが私の問いです.