2012年7月8日日曜日

『関係する女 所有する男』 1:問い



 本書に対しての私の問いは以下のようなものになります。
 『本書を通して著者が最終的に述べたかったことは何なのか』
身も蓋もないような問で申し訳ないのですが、私には本当にわかりませんでした。この本は何を目的として、どのような主張を盾に書かれた本なのでしょうか?
率直にほかの参加者の方の感想を聞きたく思い、以上のような問を持ち出す結果になりました。

以下、私のテクスト解釈も含めつつ、問の根本となる「どこがどのようにわからなかったのか」の説明をさせてください。


まず、目的はともあれ、本書の主張は大変わかりやすいように思われました。次のようにまとめられるでしょうか。
「ジェンダーとは関係性の中に存在しており、そこでは関係しようとするものが女と呼ばれ、所有しようとするものが男と呼ばれている。」
そして、そうした関係原理の違いを象徴する具体例として、摂食障害とひきこもり、腐女子とおたく、性愛の男女差異が挙げられています。
しかし、私がいまいちわからないのは、著者がどのような意図をもってこの主張を使用しているかということです。

著者は「はじめに」でこのように述べています。
僕の目論見は、あたかも男女格差本のパロディのような体裁をとりながら、「男女の違い」というイメージを最終的に解体してみせることだ。「所有」と「関係」の仮説は、こうしたイメージの支配から「ジェンダー」概念を切断するための、解体装置として持ち込まれたのだ。
では一体、どのように所有/関係原理という二項対立が「ジェンダー」概念をイメージ支配から切り離したのでしょう?本書を読んだ限り、所有/関係とはあくまで男/女に代わるジェンダーの新しい呼び名のように感じられます。
また、著者は終章で「もうジェンダーにすら、こだわる必要はないのかもしれない」と述べていますが、その代わりにジェンダー存在の基盤となる関係性にこだわるならば、それはジェンダーにこだわっている、と言えるのではないでしょうか?
というか、そもそもジェンダーにこだわるって何なのでしょうか?男女の差異にこだわって、その違いを助長することでしょうか?それとも差異をないことにしようと、無理矢理男女平等を推し進めることでしょうか?

私には、所有/関係原理をもってジェンダーを論じることが、ジェンダー差を認め、深めていくことのように思えてなりません。確かに男女に差異はあります。そこに異論はありません。しかし、「男女にはこうした差異がある」と主張しているように読める本書が、「「男女の違い」というイメージを最終的に解体してみせる」ことを目的とし、「ジェンダーにこだわる必要はない」と最後に述べているのはどうしたことなのでしょうか?このギャップは、私の読み取りの問題なのでしょうか?
結局、著者・斎藤環が主張したいことはなんなのでしょうか?そしてその主張は、どのような論証によって支えられているのでしょうか?

問というよりも、本書を読んでの感想、といった側面が強くなってしまいましたが‥。是非次回担当者の意見も聞きたく思います。「自分はこう読んで、こう思った」を応答としていただけると幸いです。