色も形も違うけれども、疑問符が各担当者の胸の内にただよっているように思う。確かに本書は「所有と関係とは何か」という新たな謎かけで締め括られており、その解法を探って読者が試行錯誤することは著者の願いどおりだろう。ただしこれらの疑問符は著者の意図する以前の場所でひらひらと彷徨っている(時には蝿よろしく叩き落とされている)のかもしれない。
これまでのやりとりを私の読み取りも挟みつつ簡単に纏めてみよう。phase1の担当者は次のように疑問を呈した。「著者はジェンダーをどのように扱いたいと考えたのか」「『所有原理』と『関係原理』の仮説によってその意図は如何に達成されたのか」。ほとんど矢継ぎ早にこれらの疑問が繰り出された背景には、似て非なる言葉たちを巡る著者のきわどい身ぶりがあるだろう。似て非なる言葉たち――「セックス(生物としての性)」「ジェンダー」「欲望の原理」(=『所有原理』と『関係原理』)、そしてしばしばジェンダーを規定するとされる「『男女の違い』というイメージ」である。
問題とされた表現、「『男女の違い』というイメージを最終的に解体し(中略)こうしたイメージの支配から『ジェンダー』概念を切断する」(p15)の意味するところについては、phase2A担当者の解説の通りだろう。すなわち終章でも繰り返されるように、著者は「ジェンダー」を「セックスとしての男女」はもちろん「イメージとしての『男と女』」からも切り離そうと試みる。ジェンダーすなわち「社会的・文化的な性のありよう」を、「『関係』と『所有』という両極の間のどこか」にある欲望の形式と関係づけることによって。さらに表(p230)にもあるように、言語、空間と時間、感情、恋愛など、これまで「ジェンダー」によって説明されてきた差異を、著者は「所有原理」と「関係原理」によってスマートかつシンプルに位置付けなおすことが出来るとしている。もはや差異を語る座標軸として「ジェンダー」を必要としないほどに。「ジェンダーにすら、こだわる必要はないのかもしれない」(p246)とはこういった態度を示しているものと私は解釈する。
また本書では「ジェンダー」や「差異」が闘いや逃走、否定の対象ではないことは繰り返し語られている。差異を差別へ持ち込ませないための方法は探らねばならないが、差異を否定も推進もしないという著者の姿勢については、phase2B担当者もその冒頭で触れている。著者によれば、ジェンダーは事実として存在しており、しかも流動的ではあるとはいえ、自由意思による選択は不可能なものである。だからこそ、その差異を十分に理解したうえでクールに乗りこなそう、と。著者が警戒しているのは、ジェンダーそのものに付きまとう影、つまり「男らしさ」「女らしさ」が孕む個人への強制力や、身体の構造に基づいた単純な二項対立へのいざないであろう。
(ところでphase2B担当者は、phase1担当者自身が「ジェンダー」「差異」を否定する立場にあるとしているが、これは本書に対する「ジェンダーをなくすと言っているのに、なくせていないではないか?」という疑問の後半部分を切り取ったものではないかと思われる。)
さてphase2ではphase1の要請に応えて担当者A・Bによる本書の読み解き方が述べられている。興味深いのは担当者A・Bが着目した章のちがいである。担当者Aはおそらく「はじめに」から第一章、そして終章に基づいて応答している。一方担当者Bは第一章、第二章に一旦触れるものの、その後は批判の矛先を第三章から第六章に向けている。偶然だろうか、この「第一章」-「終章」と「第三章」-「第六章」との関係こそ、私にとって本書に対する疑問符の一つとなっていたのである。
もう少し詳しく述べていこう。著者はまず「はじめに」から第一章で、本書における自らの立場、目論見について入念に明言を繰り返している。著者は「精神分析」の立場にこだわり、またこれによって「イデオロギー」や「生物学的性差」とは一定の距離を維持する。著者はジェンダーの差異とその存在を認め、十分に理解することによって、その枠組みから自由になることを目指している、と。次に第二章ではジェンダーに付きまとう脳科学や生理学、素朴な身体論に対する「検証」を積み重ね、――phase2B担当者の言葉を借りれば――消極的に自論を主張している。この時点では「所有原理」「関係原理」は著者による仮説でしかない。では仮説に対する検証は如何に?ここで現れるのが第三章から第六章にかけての具体的な事例である。phase2B担当者はこの部分を「論証」であるとし、その欠陥について糾弾した。しかし著者は終章の冒頭でこう語る。「ここまでの章で、男性の所有原理と女性の関係原理という欲望の二大原則については、おおまかに理解してもらえたことと思う。(中略)少なくとも僕がそんなふうに考えるに至った筋道については、ある程度わかってもらえたのではないだろうか。」(p190) つまり第三章から第六章は、著者が経験やテクストを検討し、類推し、「関係原理」「所有原理」という命題を導出したプロセスを示しているに過ぎないのではないか。確かに著者の視線を追体験することで彼の主張に「共感」することは可能ではある。だが論拠でないなら反駁するまでもないだろう。ただ単に、仮説を裏付けるための方法を期待してページをめくった手が、宙に泳ぐだけのことだ。しかしこの瞬間の違和感、断絶は読後も埋まらずに残っている。最後に、終章では精神分析の立場からジェンダーの成り立ちを説き起こし、それを「関係原理」「所有原理」へと繋げていく。「関係原理」「所有原理」がフロイトから萩尾望都に至るまでに見出すことが出来るとし、そのシンプルながら汎用性の高い物差しについて語られているが、ここでもおよそ検証と呼べる過程は現れないように見える。論証の欠陥というよりはそのものが欠落していると言えるだろうか。ものの道具などであれば「形が綺麗だったから使ってみたら使い勝手も良かった」という偶然もありうるが、本書の主張にとってそのような姿勢が有効かどうかは疑わしい。
以上が私にとっての本書に対する一つの疑問符である。またこれと同様の、埋まらない空洞のような読後感をphase1からのやりとりの内にもうっすらと見つけることができる。phase1担当者の「本書を通して著者が最終的に述べたかったことは何なのか」という根本的な問い。そしてphase2B担当者による、論証の不足から来る「関係原理」「所有原理」を認めることへの留保。またphase2A担当者はあたかも【現代文
(問題1)】に回答するように華麗に、著者の主張をphase1への応答として示しているものの、精神分析については――終章に基づく以上は精神分析の手法について触れずにはおけないのだが――「とりあえずそういうものらしい」として脇に置いている。(本書でその手法についての詳述がないことから、この振舞いは精神分析を学んだことがない者としての当然ではある。)
初めに述べたように、本書は決定的な部分を謎のまま読者に投げかけている。「いちばん肝心なことがまだわかっていないのだ。そもそも『所有』とは何か?あるいは『関係』とはどういうことか?」(p249)「本書に価値があるとすれば、それはジェンダーの問題の、少なくともその一部を、別の謎に変換し得たこと、それにつきると自負している。なぜなら、もしあなたがこの謎を解きたければ、(中略)実際に『所有』し『関係』すること以外に解法はない。」(p249) となれば、解法を求めて読者が右往左往することは著者の望むところのはずだが、どうやら私たちはその地点までも辿り着いていない。読者それぞれが、論述のそこここで何やら抜け落ちた空白を捉えてしまっているためではないだろうか。
そもそも著者はほんとうに「関係原理」「所有原理」を用いて「『男女の違い』というイメージを最終的に解体し(中略)こうしたイメージの支配から『ジェンダー』概念を切断する」(p15)ことを目指そうとしたのだろうか?これが私にとっての、著者の姿勢に対するもう一つの大きな疑問符である。
「はじめに」で著者は述べる。「本書の隠しテーマとして、『現代において精神分析は可能か』という問いを考えている。つまり、本書での僕の結論がそれなりに支持されうるものであるなら、それは『精神分析』の正当性をも証すものになるだろう。」(p4) また精神分析とは辞書によればこのように定義される。「①精神の深層すなわち無意識に関係のある行動についての観察と分析。②①による理論的な体系をつくりあげたフロイトの学説の全体。また、ユング・アドラーなどの学説を一括して指すこともある。」(広辞苑 第五版) (ちなみに「フロイト【Sigmund Freud】:オーストリアの精神医学者。人間の心理生活を、下意識または潜在意識の領域内に抑圧された性欲衝動(リビドー)の働きに帰し、心理解明の手段として精神分析の立場を創始。」(同出典)) さて前提となる知識を持たない状態での私は、本書における「精神分析」をおよそ②の定義として捉えた。それは本書に頻出する「欲望」という言葉、さらに「ジェンダーについて、僕は常に『精神分析』の立場から考えている。なぜなら『性』ほど、普遍にして固有なものはほかにないからだ。」(p190) と述べられているためである。「関係原理」「所有原理」とは言うまでもなく「欲望の二大原則」のことである。
ここで上記引用の「隠しテーマ」が実は本書における最大の目的であると読み換えてみよう。すなわち、ジェンダーを深く理解するために「関係原理」「所有原理」を持ち出したのではなく、「関係原理」「所有原理」という「欲望の二大原則」を見出すためにジェンダーを補助線として用いたのではないか?ということだ。本書から解する範囲では、精神分析とは人のこころや精神に対する理解、解釈のしかたのことである。また精神分析そのものが無意識(または下意識、潜在意識)の存在を仮定した上に成り立っていることを考えれば、この「欲望の二大原則」もまた仮説の状態で十分「使える道具」たりえるのかもしれない。
では「本書での僕の結論がそれなりに支持されうるものであるなら」(p4)と言う「支持」とはどのような読者の態度によって表されるだろうか。残念だが論証に則った支持は不可能そうだということは上ですでに述べた。では「共感」による支持だろうか。あるいは「『所有』とは何か?『関係』とはどういうことか?」と、読者がそれをジェンダーに代わる「新たな謎」として取扱い始めることだろうか。しかし少なくともその疑問符は、「謎」自体に対するものではなく、本書によって残された空洞を埋めようとして立ち現れるように思われる。「ジェンダー・センシティブ」を目指しているという著者の主張への肯定と、その論述の過程において読者の前にふと現れる断絶とのあいだで。