2012年6月1日金曜日

『記憶/物語』p75~p123 2:応答



1

「他者とは誰なのか?」という問いは、(ジュネの「シャティーラの4時間」の例に限らず)この第II部を貫く大きな問いです。

他者とは誰なのか?
その問いに答える補助線として筆者は「単独性」という概念を持ち出します。

〈出来事〉の記憶としての証言を「私」が受けとるということ、それは、このような時間的、空間的な単独性、そして「私」という人間の単独性にどこまでも貫かれている。
この単独性を手放した語りは、〈出来事〉の痕跡を捉えることに失敗します。いま、「単独性」に対置される概念としては「同化」がふさわしいでしょう。それは、当事者と証言者を分節しない態度であり、また〈出来事〉を他の〈出来事〉と分節しない態度でもあります。

前者の好例は、朝日新聞の記事でしょう。

彼女は遺骨を海にまく決心をした。海に永遠の命を重ねたからだ。

だが彼女は薬を飲むのをやめた。このままでは息子を失った悲しみまで薄れてしまうと恐れたためだ。

凪ぐ日も、荒れる日も、息子とどこかでつながっている。

このように、非人称の語り手が当事者と同化し、一体となることによって、おそらくこの女性が抱いているであろう、おずおずと、しかしすがるように、〈出来事〉に意味を充填する葛藤は切り捨てられてしまいます。

このような同化の論理は、現代では「共感」という言葉によって称揚される一方で、異質なものの排除の論理に容易に転化し、ナショナルな欲望を支えています。だから、「チリの地震」において、ジェローニモ、コンスタンツェ、ジョゼフェをつぎつぎと撲殺し、そして赤子のホアンの頭を砕いたのは、一人の殺人者ではなく、「群衆」の所業だったです。
(メルロポンティはこれを「目まいのしそうな他人の近さ」と呼んだそうです。ご興味があれば同じ「思考のフロンティア」シリーズの市野川容孝『社会』を参照してください。)

この「同化」は、語り手の単独性に対するものとしてのみならず、〈出来事〉の単独性に対するものとしても考えることができるでしょう。すなわち、本書「はじめに」の中で出てきた、「ホロコースト」と南京大虐殺を比較するような語法です。〈出来事〉の悲惨を、たとえばその犠牲者数で比べることによって相対化することは、〈出来事〉じたいを否認する歴史修正主義と近いところにあることは、すでに指摘されている通りです。

「アイデンティティ」という言葉は、文脈によってさまざまな意味に使われますが、「私」の範囲を同定し他者と区別するという含意がありますね。英語でidentity cardと言うと身分証のことですが、これは自分が他の人ではない〈自分〉であることを証明するものです。すなわち、「アイデンティティ」は自分と他者を分節する境界の内側を指す概念です。

自他の区別のない同化の論理のもとでは、アイデンティティはありません。いや、正確には、ナショナルなものへと発散することになります。一方、ジュネがそうであったように〈出来事〉とじかに向きあおうとすれば、ナショナルなもの、普遍的な物語の傘は捨てなくてはなりません。アイデンティティの源である「祖国」をもはや自明なものとすることはできない「難民的生」を生きなくてはなりません。それが困難な営みであることは、息子を爆撃で殺されたイラク人女性の例(pp49-53)を挙げるまでもなく、明らかです。

2

「証言する」という動詞はふつう、〈出来事〉について証言者が、当事者に代わって、第三者(あるいは「公」と言ってもよいでしょう)に向かって発言することを意味しますが、筆者はこれを否定します。なぜなら、当事者の立場から当事者に代わって発言することは不可能であり、それは〈出来事〉を領有し、自分たちの了解可能な物語に押し込める帰結を招くからです。ではどうすればよいのか。

ジュネの文章から筆者が示唆するのは、証言者が当事者との対話の中で、なんとか〈出来事〉に到達しようと試み、そして必ず挫折する、それでも〈出来事〉の痕跡を捉えようと努める、その過程を余さず記録すること、その中で当事者(あるいは〈出来事〉)と自らを分かつ無限の距離をごまかさないこと、それこそが「証言」であるということです。

ジュネに「ご覧なさい」と呼びかけるのは誰なのか。シャティーラ・キャンプの中を案内する者がいたと読むのが自然だと思います(ぼくはそのように読みました)が、筆者は声の主が誰なのかはっきりとわかるような形では引用しておらず、地の文の中でも「他者」としか言及していません。おそらく、わざと。だから、これをパレスチナ人の死体からの呼びかけと解釈することもできるでしょう。

ここで重要なのは、それが本当に誰であったかということではありません。「他者」の助けなしに証言者である「私」は決して〈出来事〉の痕跡に(すら)たどりつくことができないということです。「ご覧なさい」という呼びかけがなければ、「ヘル・ウィズ・ベイブ・ルース」という叫び声がなければ、「私」は見えるものしか見ず、了解可能なもののみ了解し、躓くことなく進んでしまいます。なぜなら「私」には証言しようという意思があり、証言したいという欲望があるからです。それはアメリカ人の退役軍人であっても、朝日新聞の記者であっても、クライストであっても、そしてジュネであっても変わりません。

しかし、そのような能動的な意思と欲望によって〈出来事〉を領有しようという試みは成功しません。他者の声を聞いてはじめて、証言者は自らの「無能さと受動性」に気づくことになります。なぜなら進もうとする先に実は道はなく、「物語にぽっかりと口を開いたあの開口部、語り得ない〈出来事〉の余剰へと通じるあの穴」(p84)があるのみだからです。

その結果、証言者に許されることは本当にわずかしかありません。原因を問うことはできても、意味を問うことはできず、ただ即物的に目の前にある、そのような〈出来事〉の痕跡を淡々と記録すること。それがジュネの答えだったのでしょう。