2012年4月14日土曜日

『記憶/物語』pⅲ~p74 3:コメント

 [1]
とりとめのなく行き来する文章構成に紛れてわかりにくいですが、本書の特に第1部で、筆者には二つの特徴的なアプローチを一貫しています

[1-1]
一つは戦争と暴力をテーマとすること。パレスチナ難民の虐殺、ホロコースト、「慰安婦」、「アデュー」、スピルバーグの映画、湾岸戦争、傷痍兵、『ワンダフルライフ』にも戦死した男のことが取り上げられます。これはもちろん、本書の議論の射程が、戦争と暴力の問題に限られるということではなく、筆者の関心がそこにあり、かつできるだけ相互に参照可能にするため、かなり注意深く選んでいるという印象を受けます。

phase1の問いの中に、本書の背景をなしているはずの90年代という時代を象徴する二つの〈出来事〉、阪神大震災と地下鉄サリン事件について、筆者が触れるのを避けているのはなぜか、という疑問がありました。もちろん、阪神大震災と地下鉄サリン事件も表象不可能性を帯びた〈出来事〉であることは間違いありませんし、第2部をちら見するとp82以降に阪神大震災について取り上げた箇所もありますが、平穏な社会秩序の中で突発した二つの〈出来事〉と、戦争という異常事態のもとで起こる無数の小さな暴力とは、自ずから性質を異にするものだと筆者は考えているのだと思います。

[1-2]
もう一つ、特徴的なのは、phase1担当者もphase2担当者も指摘するように、筆者が「不足」「欠落」に注目していることです。物語が何を語っているかではなく、何を語っていないのか、何を語りえないのか。そこから〈出来事〉の表象不可能性を読み解かなくてはならない。なぜなら物語は〈出来事〉そのものを語ることはできず、「言葉では再現することのできない〈現実〉があることを、言いかえれば〈出来事〉それ自体の在処を、指し示す」(p15)ことしかできない、と筆者は繰り返し述べています。

このロジックで筆者は二つのものを批判します。

一つは〈出来事〉を「リアルに」再現することによって、〈出来事〉に接近できるのではないかという幻想(筆者はそれを「ナルシスティックな欲望と共犯関係にある」(p21)とも言っています)であり、もう一つは他者の血、他者の死を、それがあたかも最初からそんなものはなかったかのように記憶を改変する否認と忘却(こちらは「ナショナルな欲望と分かちがたく結ばれている」(p55)とされています)です。

[1-3]
このとき、ぼくが想起するのは『戦場でワルツを』という映画です。3年前にアカデミー外国語映画賞を受賞した作品なので、観た方もいるかもしれません。本書の「はじめに」でもその名が出てくる、サブラー=シャティーラでの虐殺をテーマにしたドキュメンタリーです。しかし、作品中では虐殺そのものについては一切語られません。虐殺が起こった1982年にイスラエルの兵士として従軍していた主人公のフォルマン(映画の監督自身なのですが)が、それから20年以上経って自分が当時どこで何をしていたか思い出せないことに気づき、その記憶を取り戻すために当時の戦友たちを訪ねて回る、という筋書きです。

この映画の優れている点、そして批判すべき点は、まさに本書の指摘と合致します。

すなわち、この作品は〈出来事〉の表象不可能性にはとても真摯に向き合っています。時系列に並んだ明確な物語はなく、主人公が回復する断片的な記憶が、ときに夢、幻視などと混在しつつつなぎあわされています。また、ドキュメンタリーとしては珍しくアニメーションを用いていることもあって、しばしば超現実的な描写が現れ、戦場をリアルに再現しようという欲望からも(おそらく意識的に)距離を置いています。ぼくはこの作品を二度観たことがありますが、そのたびに、決して難解ではないのに何を語っているのかわからない、すっきりしない印象を受けました。自分の経験をどれだけ一般化できるかはわかりませんが、少なくとも、「普遍的な人間性への共感」を覚えられるような物語でないことは確かです。

一方で、一貫してイスラエル兵だった主人公の視点からしか物語を描いていない、殺されたパレスチナ難民たちを他者として否認している、という指摘は当たっているかもしれません。ぼくはそれは、語り得ないことは語らない、というフォルマン監督の誠実さの現れと思いたいのですが。

ちなみに、筆者(岡真理)はアラブ文学の専門家であることから、『戦場でワルツを』が公開された当時、上映会でトークイベントなどに出ていたようです。そしてかなり批判的であった、という記録がネット上に散見されます。パレスチナ問題についてイスラエルを批判し続けている論者なので、イスラエル側の視点から描かれた作品に対する反応として自然といえば自然かもしれませんが、本書と通底するテーマを扱った作品をどのように評したのか気になります。

[2]
筆者は不条理な、すなわちそこに私たちが理解できる意味や理由を見出すことができないような〈出来事〉に「偽りの意味を充填する」ことに厳しい目を向けています。筆者の議論に従えば、私たちが偽りの意味を充填してしまう動機は当事者と非当事者で微妙に異なります。

[2-1]
非当事者にとっての偽りの意味とは、『プライベート・ライアン』では「正義」であり、『シンドラーのリスト』では「ヒューマニズム」であり、『ベント』では「真実の愛」であり、つまり極限的な状況であっても自分たちが理解し共感できるような価値が存在することに観客(である私たち)が安心し、〈出来事〉の本当の暴力性から目を背けられるような物語のことです。バンジージャンプのように命綱がつけられ、私たちには牙を向かないようよくコントロールされた〈暴力〉なので、私たちは「物語が終わると同時に、私たちの日常世界に戻っていく」(p44)ことができます。しかし、その物語は決して普遍的ではなく、その物語を共有できない他者を登場人物からあらかじめ排除し、忘却・否認しようというナショナルな欲望と分かちがたく結びついて生成されている。筆者はそう主張します。

このような欲望は、たとえば先の大震災でも顕著に現れたように思います。日本人がいかに整然と災害に対応したかという〈美談〉が震災直後にもてはやされたことや、「がんばろう日本!」という標語が街中の至る所に見られたことだけを指しているのではありません。2万人近くが亡くなったとはいえ、被害のほとんどが岩手、宮城、福島の3県に集中した自然災害が、瞬時に〈国難〉という物語に回収された過程じたい、私たちのナショナルな想像力の回路を稼働させたものでしょう。なぜなら私たちが、東北の日本人被災者に対して覚える共感と同じものを、サイクロンに見舞われたミャンマーの人々や、大地震によって壊滅的な被害を受けた四川やハイチの人々にも向けることは、ほとんど考えられないからです。(ちなみにミャンマーでは14万人が、四川では9万人が、ハイチでは22万人が犠牲になったとされています。)そしてそれが単なる地理的な距離の問題でも被害の大きさの問題でもないことは明らかです。

[2-2]
一方、〈出来事〉の当事者に偽りの意味を充填する例として筆者が挙げるのが、湾岸戦争の際にアメリカ軍の空爆で息子を亡くしたイラク人女性です。そして、理不尽な死であっても、いや理不尽であるからこそ、その〈真実〉の空虚さに直面しなくてはならない、それが最後の尊厳であるのだから、とするベッテルハイムの議論に、筆者は「たじろ」ぎ、「もうひとつの暴力性に」「打たれ」ながらも、それが倫理的命令であると認め、最後の尊厳を剥奪するような欺瞞に厳しい視線を向けています。その視線にぼくも心情的には同感します。けれど、偽りの意味を充填することは常にそのような厳しい視線にさらされなくてはならないのでしょうか。

「アデュー」では〈出来事〉の記憶を取り戻したステファニーは死んでしまいます。フィクションとはいえ、トラウマがそれほど圧倒的であるとき、それでも〈真実〉に直面することが果たして倫理的と言えるのでしょうか。「息子さんは悪の帝国アメリカの犠牲者として死んだのではなく、湾岸戦争という暴力に巻き込まれて理由もなく死んだのだ」と告げるとき、イラクの女性はその〈真実〉に耐えられるでしょうか。これはまさに筆者自身が「拷問の論理」と呼んでいるものそのものです。

〈真実〉に向き合え、と(他者に対しても自己に対しても)強いるというのはどのような欲望に基づいているのでしょうか。「想像を絶する(中略)〈出来事〉を可能にした瞞着、欺瞞の犯罪性を私たちが批判しなければならないとしたら、自らに対しても欺瞞を拒否しなければならないという倫理的命令にさらされているとも思う。」(p48) しかし、その倫理的命令はどのような価値を前提としているのでしょうか。

もちろん、トラウマにさらされた者の感情を政治的に利用したサッダーム・フセインや、自分の「ナルシスティックな欲望」を実現しようと試みたフィリップの行動は正当化されるべきではありません。しかし、当事者の傷の回復のために一定の物語がサプリメントとして必要であるとき、そのサプリメントを探すことすら否定してしまったら、当事者は何を証言すればいいのでしょうか。そのような倫理的命令を正当化する論理こそ、「なぜ記憶を分有すべきなのか」という問いに答えるものであるはずですが、筆者はそれを十分に明示していないように思います。

もちろん、筆者にとって中心的な課題は、当事者をいかに救済すべきか、ではなく、〈出来事〉をいかに語るか、傷を負った者をどのようにまなざすかという点にあることは確かです。しかし、トラウマを物語で埋める作業によって癒しを得ることはできず、当事者は永遠にトラウマに晒され続けるのだという厳しい前提が課されるとき、それは当事者自身が傷から回復し、すこしずつ傷そのものから自らを遠ざける力を過小評価しているのではないでしょうか。