2012年7月22日日曜日

『関係する女 所有する男』 2:応答 A



 何を目的に、何を最終的に述べるために書いたのかと問う時、著者が何に対抗しようとしたかと考えることは有用であるように思われます。何に対抗するために書いたのか、その敵の主な一つは、ジェンダーを生物学的要素に還元しようとする論者たちでしょう。男性らしさ、女性らしさというものを決定づけているのが生まれながらに持ち合わせた身体(脳)だとしたら、それは動かしようのない個人の属性から演繹されて決まるということなります。これと対比して、関係原理、所有原理という観点からジェンダーを考えることの特徴はなんでしょうか。


関係原理も所有原理も個人の属性ではなく、関係のスタイルです。ここで注意したいのは、所有と並列に並んだ“関係”とその両者を含む“関係”は意味が違うということです。後者の“関係”の方が上位概念にあたります。関係性というのは、その度ごとに、その相手ごとに、行為を行うたびに現れるものであり、更新されていくものです。また、関係し合う個々の属性によって固定的に決められるものではなく、個体間の微妙な空気や、利害関係の移ろいによって変化する流動的なものです。しかし、流動的とはいえ、多くの人の間で関係性が積み上げられていく中で自然と多数派(あるいは多数でなくても支配的な層)の欲望に沿った関係のあり方が規範として、あるいは自然なものとして受け止めらていくようになり、そしてそのような関係のあり方に適合した規範的な男性らしさ、女性らしさが(あるいはそれに反する男らしくなさ、女らしくなさが)個人の属性として受け止められていくようになります。つまり、関係性というものは、本来は流動的でそのたびごとに生成するものであると同時に、このように関係するべきだ/はずだ、という固定化の圧力にも常に晒されているものということになります。関係性を固定的なものとして捉えようとすることは、身体(脳)がジェンダーを決めているという論と相性が良く、相互に結託して補完し合う機能があるように思われます。

 ところで、斉藤もphase1担当者も「ジェンダーは関係性の中に存在している」という命題については違和感なく肯定していると思われます。ジェンダーが何かしらの行為の中で初めて顕在化することを考えると、行為とは常に行為の主語と目的語を関係させるものですから、この命題は原理的に当然という気もします。(そんなこと言ったらほとんど全てのものが“関係性”という概念に回収されちゃうのでは、と言われそうですが、僕はけっこう本気で世の中の大体のものは“関係性”に回収されると思ってます。)

 ジェンダーが関係性の中に存在しているとするならば、ジェンダーもまた上で述べたように、本来は流動的でそのたびごとに更新されるものであるはずなのに、同時に固定化の圧力にも晒されているものということになります。関係原理、所有原理という観点からジェンダーを語るということ、それは関係性の次元からジェンダーを考えるという姿勢を貫徹することで、身体(脳)による規定という論にも後押しされながら固定概念に回収されてしまいそうなジェンダーを、再び柔軟な議論が可能な場所に引き戻すという試みなのかもしれません。



 さて、斉藤の狙いを以上のようにまとめても、これだけではphase1の問いは解決しないでしょう。関係性とは本来流動的なものであるからジェンダーも固定的に捉えることはできないといっても、関係原理を女に、所有原理を男に結び付けるならば、固定の形式を変えただけで身体(脳)規定論と変わらないではないかという疑問が残ります。phase1の問いに真に応答するためには、関係原理と女の結び付き、所有原理と男の結び付きについて考えなくてはなりません。

 所有原理と男の結び付きについて、斉藤は精神分析の去勢の概念を出発点に論じます(p192195)。男児の人生は、万能感と安心感に満ちた母親との一体感から始まりますが、やがて自分にとってかけがえのない器官であるペニスを母親が持っていないことに気付き、この一体感は終わりを告げます。母親がペニスの欠如した不完全な存在であること、そしてペニスを持った父親を欲望していることにショックを受けた男児は、母親のペニスを補完する存在になりたいと欲っしますが、父親からそのポジションを奪うことにも挫折します。やがて、男児の欲望は父親のようなペニスを持ちたいという形に変形し、これが所有の欲望、所有原理という関係性への志向の起源となります。

 関係原理と女についてはどうでしょうか。こちらも精神分析を論拠に記述されています(p198200)。自分も母親も持っていないペニスというものの存在を知った女児は、自分と母親をペニスの欠如した存在として認識し始めます。ペニスを自分で持ちたいと思うようになりますが、それが叶わないことを悟った女児は、やがて父親のペニスを享受したいという欲望を持ち始め、これが将来の男性への性欲や出産への意欲、つまりペニスの持ち主と関係したいという欲望の萌芽となります。

 以上の説明が幼児期の人格形成の説明として妥当なのかはよく分かりません。私個人は、男児の説明について全面的ではないにせよ納得できる面もありますが、女児の説明についてはほとんどピンときません(これは私が男だからでしょうか)。この点は本書の議論においては核心となる部分ですが、このphase2は斉藤の狙いを明確にすることが目的なので、掘り下げることはせず、とりあえずそういうものらしいということにしておきます。

 さて、男児と女児の欲望形成過程を比べてみると、ペニスの有無がそこに大きな影響を与えているということが分かります。このように書くと、結局、身体が規定しているのではないかということになりますが、そうではありません。形成過程の出発点はペニスの有無ですが、その内実はペニスの有無によって決められるのではなく、“ペニスの有無をどのように受け止めるか”によって決められます。母親にペニスが無いことを知る男児、母親と自分以外の男はペニスを持っているということを知る女児、ここから始まる感情、欲望の変遷は家族内の関係性の中で展開していきます。つまり、出発点は先天的に決まっていますが、具体的な道筋は後天的な要素で決まるということです。後天的な要素は各幼児を取り巻く家庭状況によって多様なはずですから、関係原理と女の結び付き、所有原理と男の結び付きは決して一義的に決められるものではないということになります。

上述したような欲望の形成は、精神分析によるプレーンな形での“想定”です。プレーンな想定通りに人格形成が進めば、プレーンな関係する女とプレーンな所有する男が生まれますが、実際の家族関係、及びそこで展開する人格形成は多様なのですから、具体的な個々人はプレーンな想定からは少しずつ、あるいは大きくずれていくはずです。欲望の、あるいは関係性への志向のスタイルとして関係原理と所有原理は座標の両端に置かれます。これは境界線が明確なカテゴリーではなく、中途半端な位置にあるものも測ることのできる物差しです。家族関係が精神分析の想定するものではなかった場合、例えば父親の規範や倫理を押し付ける法律のような存在(p193)としての性格が弱かった場合は、男児の欲望は座標軸上の通常よりも関係原理に寄ったところで形成されるでしょうし、また女児の欲望は所有原理に寄ったところで形成されるでしょう。また、一人の人間においても行為のたびにその座標軸上の位置は変化するかもしれません。幼児期の去勢やペニス羨望をめぐる経験で培われたものが、その後に出会う他者との関わりの中でどのように現れてくるかは場面ごとに異なるはずだからです。それは、“幼児期の本人を取り巻いていた家族内の関係性”と“今出会っている他者との関係性”との間の“関係性”に左右されるものだと思われます。

このように、ジェンダーを、男女の身体構造というはっきりと断絶した二項対立ではなく、関係原理と所有原理という連続した線の両端としての二項対立によって捉え直せば、個々人ごとに、場面ごとにジェンダーを考えることができるようになるはずです。(=ジェンダーセンシティブと言えるのでしょうか??)。これが、斉藤の言う「『男女の違い』というイメージを最終的に解体し(中略)こうしたイメージの支配から『ジェンダー』概念を切断する(p15)」ということなのではないでしょうか。