2012年6月11日月曜日

『記憶/物語』p75~p123 3:応答 B



コメント、というより僕の思考の履歴を文章にあらわれるままにメモした感じです。
まず、問い応答のやりとりについてコメントを。
ただし、問いの立て方、そしてそれに対する応答の仕方が適切かどうか、という問題は、僕にとっては(最近は)おもしろくないのであまり言及しません。また、テクストを読みましたし、面白いところつまらないところもあったのですが、既に各々理解をまとめて頂いているので、ここでテクストの細部に改めて言及しないことにします。
僕の思考のきっかけとなったのは、応答の際に応答者がメールで言及した以下の文章です。(ブログ本文では出てこないので紹介します)



○○くん(問い担当者)の問題意識はぼくにはよくわからなかったというか、
○○くん(〃)の読み方に特有な問いの立て方であるような気がしたので、
正面から答えるというより、ふわっと受け止めた感じになりました。


そもそもどうしてこんな齟齬が生じるのでしょう。
この読書会の特性が良く見えてくるんじゃないでしょうか。確かに、この勉強会は、一人あたりの熟考の時間が用意されています。ただし、それぞれの書き手の「真意」を確認するアプローチは用意されていません。ですから僕たちはその「真意」を、文章から推測し、解釈することでしか掴みとることは出来ないのです。
けれども、だからといって対面でのインタラクティブなアプローチならば真意を100%理解できると言っているわけではありません。それでも、「語り」のコミュニケーションのほうが「書き」のコミュニケーションよりも何倍も「わかった気分になれる」ことは確かだと思います。

もうひとつ、
この問題意識のちがいは、各担当者のテクストの読み方に依存しているような気がします。だってこのテクスト、わかりづらいじゃないですか。問いはそもそも、テクストのなかのある部分だけ、文脈的につながらないということから発したものだと解釈しましたが、個人的にはそんな部分はもっとたくさんあったと思います。というか、ありました。なぜこんなにわかりづらい文章を書くのでしょうか。そもそも、「〈出来事〉を分有するには」という問いを立てるのであれば、まず〈自分の言いたいこと〉を分有してもらえるような文章を書くべきじゃないのフツウ。と、あまりにもわからなさすぎてテクストに文句を言ってしまったくらいです。

さて、ここから僕の問題意識は当該テクストの書き方から学問的文章一般へと移ります。

そもそもどうして、こんなに幾通りにも解釈できるような文章を書くのでしょうか。学生のときはたくさんこういった文章を読み、そして書いてきましたが、今(ビジネスで)こんな文章を書けばきっと上司に怒られるでしょう。それがフツウの感覚なのです。アカデミック・コードとでも言えばいいでしょうか。この、ある限られた人にしか共有されない限られた言語規則、読解の規則。奇妙な言葉遊び。
学生時代のある日、僕の先生は言いました。

「価値のある研究には二通りある。実社会にインパクトを与えるもの、そして学問界にインパクトを与えるもの」

この言葉は、穿った見方をすれば、「学問界にインパクトを与えるならば、実社会に影響を与えなくとも価値がある」という風に読み取れます。人文学では、特にそういう性格は強いと思います(少なくともこれまでは)。

最近思うのですが、これは優雅な言葉遊びにすぎないのではないでしょうか。著者は「女の歓び」というフレーズを「陳腐な」「紋切り型の」表現といっていましたが、きっとアカデミック・コードには陳腐な表現・紋切り型の表現は使われないのでしょう。人文学のすべてにおいて、複雑な言葉を、複雑なロジックを用いて言いたいことを表現することが真、という風潮が、確かに見えます。言葉を司る気分になったような、ある種の欺瞞が、そこには満ち満ちているような、そんな気持ちの悪い感覚が、ふと現れてくるのです。

よく「オタク」と呼ばれる人々を「キモい」と形容する人々がいますが、そのときの感覚にすこし似ています。なにか異質な・oddな感じがするから。けれども当事者は全くそんなことを思っていない。楽しいと思ってやっている。いや、それはそれで良いのかもしれません。ただ、このままだとそれが外に開かれることは無いのかなあとも思います。