まず、本書の主張について私の問いに関する部分だけを抽出して要約する。
人間が知者として生き、心のある道を歩んでいくためには、トナール的な価値体系から抜け出して自由になることが必要である。つまり、生まれついた共同体での生活で身につけ内面化していく意味体系や価値の序列から自由になることで、その目的論な意味へ疎外されないようにならなくてはいけない。しかし、この「翼をもつこと」だけを追求しすぎることは、世界に一個人という形で凝集している自分の生命のまとまりに裂け目を入れてしまうことであり、死へとつながってしまうことでもある。これを避けるためには、戦士は自分の世界をつくる項目を選び出す(p129)。全ては他の価値体系と比較することで相対化され得るものでしかないと知りながら、そのようなものごとの中から選びとった項目で自身の生活を構築するということを、その愚かさを自覚した上で敢えて遂行するのである。それに対し、普通の人は「人のすること」をすること、つまり既成の道徳や価値観に執着することで自身の生命のまとまりを保っている。世界を作る項目を選び出す基準は〈心のある道〉、何かを達成することに重きを置くのではなく、その生きる過程自体が、その先にある結果とは関係なく充実しているようなあり方ではなくてはいけない。そして、あらゆる価値体系から自由に自身の根を引き抜いていきながら、しかし大地そのもの、存在そのものへの愛を自身の根とすることで、ニヒリズムに陥ることなく〈世界〉と即融し、心のある道を歩み尽くすことができる。
さて、以上のように本書の主張を解釈した上で、テクストに対する問いではなく、テクストから派生する問いというものを考えたい。自分が取り込んでいた/取り込まれていた文化を相対化すること、当たり前だと思っていたことを当たり前に感じなくなることが必要であるが、それでは、自分自身が以前よりもメタな視点に立つようになったかは果たしてどのように判断することができるのだろうか。それを判断する際の基準を、トナール的に構成された枠組みではないと言うことは果たして可能なのであろうか。
この問いにどのように答えたとしても、私にとって本書の主張が非常に魅力的なものであることに変わりはない。たとえ、自分自身の世界観が変化した時に本当に自分の出自のトナールを抜け出ることができたのか、どの程度抜け出ることができたのかを判断できなかったとしても、そこから抜け出すという発想を持つだけでも世界の見え方が変わり、自分の生を捉え直す契機になることは間違いないからだ。その意味で、この問いはテクストに“対する”問いではない。しかし、本書で主張されている姿勢を我々が実践することを想定した時、この問いは避けられないものだと私は思う。
文化、また、共同体というものを、固定的な実体があるものだと想定した場合、事態は単純だ。共同体Aの成員はみんな同じ文化【A】を内面化している、共同体Bの成員はみんな同じ文化【B】を内面化している、というようなモデルである。Aの成員がBの成員と交流すれば、今まで内面化していた文化【A】の認識枠組や価値体系が崩され、より視野の広い文化【甲】が新たに生まれる。この時、【甲】は【A】、【B】よりメタ度の高い文化である。文化【甲】の生成により、その人は狭い価値体系の意味へと疎外される度合いが今までより弱まるであろう。ドン・ファンが「見るということは世界と世界のあいだにはいりこんだとき、つまり一般人の世界と呪術師の世界のあいだにいるときにしか起きないということがわかっただろう。」(p83)「見るためには、別な見方で世界を見ることを学ばねばならんのだ。」(p84)と述べているのは、このような意味だと思われる。しかし、この文化【甲】の生成される場も、あくまでも【A】、【B】間の共訳可能なコミュニケーションを前提としており、決して文化的な制約から完全に解き放たれたものではない。【A】と【B】の出会いの場という一つの限定的な文脈の制約を受けるものであって、それは新たなトナールの生成でもある。究極的にトナール的な枠組を排除した在り方があり得ないことは、Ⅲ部でトナールの自閉性からの解放とナワールへの飛翔を追求し過ぎると、一個人としての生命の凝集に裂け目が入り死んでしまうと述べられている通りである(p134)。とはいえ、この時【甲】が【A】【B】よりも、より知者の生き方に近いということは間違いなく判断できるであろう。
しかし、文化、共同体は本当にこのような単純化したモデルで捉えることができるのだろうか。個人が「世界」を内面化していく過程についての記述を見てみたい。「人はわしらが生まれたときから、世界はこうこうこういうものだと言いつづける。だから自然に教えられた世界以外の世界を見ようなぞという選択の余地はなくなっちまうんだ。」(p85)「子どもと接する大人はみな、たえまなく世界を描写する教師であり、その子が描写されたとおりに世界を知覚できるようになるまで、その役目を果たしつづける。」(p86~p87)このように文化を内面化していく過程は、共同体成員間のコミュニケーションが主要な場となる。当然、成員がどの成員とのコミュニケーションを通じて文化を内面化していくかは個人差がある。また、同じ共同体の中のコミュニケーションでも、他の共同体を見てきた人がその文化を持ち帰って自文化を相対化するようなコミュニケーションを行うケースがある。このように考えると、同じ文化圏の中でも小さな違いのある文化が並立しており、その違いが小さいために強く意識されないだけで、【A】【B】→【甲】のようなメタ作用のある文化間コミュニケーションが常に行われているはずである。
本書の記述に即するならば、このような同一文化内の小さな差異はとりたてて深く掘り下げる必要はない。なぜなら、カスタネダの出自と、ドン・ファンの出自の集団間には交流が少なく、それぞれが排他的に自立した世界を形成しているからである。また、インディアンのそれぞれの部族も(推測になるが)、部族ごとに凝集した生活をしており、他部族との生活圏、文化圏の境界線は明確に引けるものだと思われる。そして、これも推測になるが、部族内の産業のバリエーションは限られていて、誰がどのような生業で生きていて、自分の生活とどのように連関しているか、というのもだいたいは見えいているものであろう。つまり、文化、共同体の内部、外部の境界がはっきりしており、かつ、内部での各々の生の様態がだいたいは見渡せているので、上記の単純なモデルが大まかには成り立っているのだ。
しかし、現代社会に住む私たちが(ところで、カスタネダが実際にドン・ファンの元で修業していたのはどのくらいの時期なのだろうか。4部作の一冊目の刊行が1968年で、10年ほど修業していたとあるから、50~60年代かと思われる。)、本書で主張されるような姿勢を実践しようと考えた時、上記のような単純な文化、共同体のモデルは適用できるのだろうか。現代において、私たちが生活の大半を一つの人間関係圏の中で過ごすということはない。朝起きてある時間まではある生活圏の中で過ごし、また別の時間は別の生活圏で過ごすという一日の中のサイクルがある。また、週単位である曜日はある集団に参加し、また別の曜日は別のところで過ごす。また、月、年といった、もっと長いスパンのルーティンで生活圏の移動を繰り返す人もいるだろう。これらの行き来する生活圏の枠組みは、家族、会社、学校、仕事の出向先、ボランティア・グループ、趣味縁、など多種多様な集団が想定できる。集まるきっかけも目的も、集団内の価値観も全く異なる多様な集団が世の中には併存している。ある場所での経験によって人格形成されながら、そこでの経験を全く共有しない他者が集まるまた別の場所でも並行して人格形成がなされる。つまり、一人の人間が一つの文化圏内に留まり続けるということはなく、個々人の世界観の形成は常に複数の異なる文化の出会いと混合としてなされるのである。
また、これらの集団は多くの場合、人員の出入りがある。それまでその共同体には無かった文化や世界観を持ち込む人間が入ってくる場合もある。共同体の文化は、そのような新参者によって変形され、再構築される機会をたくさん持っている。
つまり、多様な集団文化が流入する容器として個人は多元的であり、同時に個人が出入りする容器としての集団も多元的かつ流動的なのである。共同体Aの成員はみな同じ文化【A】を内面化しているというように、共同体、文化を固定的な実体を持ったものとして捉えることは、当然不可能だ。
しかし、これらのミクロな人間関係のネットワークの多元性も、国などの大きな枠組みで見れば、その多元性を包括する固定的な「日本人」、「日本文化」という実体を想定できるのではないかとも言えそうだ。だが、日常的に国をまたいだ移動や交流を行っている人は現在では珍しくない。そして、自分自身がそのような地理的、文化的に地球規模の距離のある交流を行わなかったとしても、そういった人々がそれぞれの属する文化に与える影響は、複層的な文化間のネットワークを流れてあらゆる場所に届くのである。海外経験を持つ知人を持たない人はほとんどいないであろうし、多国籍企業の作るサービスを享受しない人もほとんどいないであろう。(この読書会も、googleという多国籍企業のサービスを基盤としている。そしてWebサービスという具体的な事象から滲み出ている彼らの思想や文化は、意識的にも無意識的にも読書会参加者に多大な影響を与えている。)
このように幾重にも織り重なる多元性を持った社会に生きている我々にとって、【A】【B】→【甲】のようなメタ化作用のある文化間コミュニケーションは日常のいたるところに溢れている。そして【甲】【乙】→【α】のようなさらなるレベルのメタ化作用のあるコミュニケーションもあるだろう。しかし既に述べたように、メタ次元で新たに開かれる視界も結局は社会的に生成される特殊文脈的なものであって、あらゆる文化的な制約をきれいにとっぱらったものなどでは絶対にない。それでも、上述した単純なモデルを前提としたならば、【A】【B】のレベルと【甲】【乙】のレベルには明確な序列付けができる。だが、単純な共同体、文化モデルを前提としなかった場合、文化と文化が混ざり合う中で繰り返し、重層的に生起しているメタ化作用に対して、どれがより知者の在り方に近づくものなのかという判断はどのように下すことができるのか。その判断の基準となった認識枠組みもまたなんらかの特殊文脈的な制約を受けて成立しているものでしかないというのに。
結局、真の〈明晰〉さを持った戦士の生き方というのは、我々にとってあくまで到達不能な理念でしかないのか。そして、その理念への方角を示す地図は存在し得るのだろうか。
未知との遭遇は人生に満ち溢れている。しかし、未知に未知として向き合ったと自覚することは、いかなるレベルで、どのようにして可能となるのだろうか。