2012年6月10日日曜日

『記憶/物語』p75~p123 3:応答 A



1.    他者の声その働き

まず、「シャティーラの4時間」における他者の存在ですが、私はこれを〈出来事〉の分有に必要不可欠である「受動性」を他者にもたらし、彼らの生の攪乱を果たすものだと読み解きました。

 ジュネの「シャティーラの4時間」を論じる箇所において、筆者・岡は以下のように述べています。
   
   そして、〈出来事〉の記憶を分有するという営為とは、この他者の呼びかけの声にその無能さと受動性において応答するものにほかならない
  ということである。(p98

 外部にいながら〈出来事〉の証言者であろうとする主体に「その主体性を挫くように(p97)」働きかけ、さらに証言者を〈出来事〉の前に徹底的な受動性を持ってひざまずかせること、それこそが他者の声の働きです。
そして、その他者の声に「その無能さと受動性において応答」することとは、まさに〈出来事〉に自らの生を受動的にゆだね、かきまわされる―すなわち、「外部の者の生が攪乱されること」と同義のように考えられます。
 外部の者の生の攪乱の必要条件として挙げられている受動性は、ジュネが述べた他者の声によってもたらされる―以上が「シャティーラの4時間」というエピソードを本書の中に置くことで、岡が伝えたかったことのように私には思えました。

 Phase2の担当者が述べている通り、他者の声は〈出来事〉と外部の者とを無限の距離を持って分かつものなのでしょう。そして、その距離を認め、距離の存在すらもが第三者の証言の中に組み込まれたとき、記憶の分有は達成されるのです。「シャティーラの4時間」に記述された「ご覧なさい」に続く「私は気づいていなかった。(p96)」というジュネの記述は、まさにこうした〈出来事〉との埋めがたい距離を表すものだと考えられます。
 そして、そうした〈出来事〉との距離を外部の者が体験し、攪乱される。〈出来事〉そのものではなく、〈出来事〉がはらむ距離にのみこまれる受動的な存在になることで、〈出来事〉による人の領有は達成されるのでしょう。

2-1.“他者その表現に対する疑問

 さて、他者の声の働きは以上のようにまとめられました。しかし、phase1で持ち出された問いのように、なぜ岡はあえて他者の声というジュネの言葉をここで借りたのでしょうか?なぜ人称としての他者という表現を岡はここで選んだのでしょうか?
 はじめに述べたように、他者の声により外部の者の生の攪乱がもたらされると考えれば、「シャティーラの4時間」は本書で述べられている理解の枠組みになんとか収まるでしょう。ただ、これだけではphase1の担当者の問い「ジュネに語りかける他者とは誰か?」にはまだ答えることができません。
ここでの他者とは具体的な第三者のことを指すのではなく、主体としての外部の者に対応する他者として表現されたものだ、という単純な解釈はできるでしょう。しかし、率直に言ってこの理由づけも釈然としないものです。「稀有な文章(p95)」と評された「シャティーラの4時間」を記述する岡の熱っぽい文体、またエピソードが置かれた第Ⅱ部2章のラストといった場面を考えれば、他者の声という表現には何か特別な意味が込められたように感じられます。(だからこそ、phase1の担当者もここに注目したのではないでしょうか?)
それでいて、他者とは何であるか/この他者というキーワードに何が見出されるか、ということに対して岡は何の言及もしていません。あるのは、他者の声の働きだけです。
説明がされていないからこそ、phase2で述べられているように「"他者が誰か、ということが問題なのではない」とも言えるでしょう。しかし、ならばこの他者の声という表現の唐突な登場に感じる違和感に、どう説明をつけたらいいのでしょうか?なぜ岡はここで「シャティーラの4時間」を持ち出したのでしょうか?〈出来事〉の語りの4つの例と、「シャティーラの4時間」を繋ぐ説明が、ここでは絶対的に不足しているように思えます。

2-2. 散らばるキーワード、読後感 as “Hell with Babe Ruth”

 ちなみに、「なんでここからいきなりこのエピソードにいくんだろ~?」という感想は、本書を読む中で私自身ずっと抱いてきたものです。例えば、第3章では記憶の分有の可能性は「難民的性を生きるなかにある(p112)」といったことが述べられ、本書の議論が総括されていますが、正直言って「なんでいきなり最後に難民の話になってんのかしら。」と私は大変戸惑いました。
外部の者の生の攪乱、というキーワードが、なぜこうも姿を変えて登場するのでしょうか?っていうか言い換える意味はどこに?
(?_?)←こんな顔になってしまうくらい?マークがたくさんです。
 
 また、本書の前半に対して持ち出された「記憶の分有はすべきか」という問い、また「記憶の分有を切望する根幹にはなにがあるのか?」「そもそも分有を望む記憶とはどのようなものか?そこに条件はあるのか?」というような議論の前提を、残念ながら私は岡と「分有」することができませんでした。(岡の議論、という〈出来事〉に対し、私はジュネのようにこんなにも距離を感じているというのに!)
 
生の攪乱、他者の声、難民的生、と言い換えられる〈出来事〉の記憶の分有の可能性を担うキーワード、それこそが「ご覧なさい」と読者を導く他者の声なのか?とこじつけめいたことも思ってはみたものの、釈然としないまま今に至ります。

 「なぜ?」という問いとともに、「記憶/物語」の読書体験は生々しく私自身の記憶に残るでしょう。
しかし、それでいったい何がなされたのでしょうか?それこそが、私の本書全体に対する応答です。