2012年5月13日日曜日

『記憶/物語』p75~p123 1:問い



 私が本テクストに対し提示したい問い、それはジャン・ジュネの「シャティーラの4時間」を紹介している箇所(p95,98)で、岡真理が言及している“他者”とは何か/誰かということ、そして、この箇所について本書全体の論旨を踏まえた上でどのように解釈すればよいのかということである。

 問いの説明に入る前に、まず、本書の主張を私なりに解説しつつ要約してみたい。本書を貫いているテーマは、他者の〈出来事〉の記憶を分有するとはどういうことか、それはいかにして可能か、ということである。


集団的な記憶を物語り歴史を構成していくのは、〈出来事〉を体験することなく生き残った者たちであるから、〈出来事〉の記憶は〈出来事〉の外部にいる者たちにも分有されなくてはいけない。しかし、それは〈出来事〉の当事者がその記憶を言語化し、それを外部の者たちが拝聴するという形でなされるのではない。当事者は〈出来事〉の暴力を現在形で生きているために、あるいは〈出来事〉の際に死んでしまったために自ら語ることができないからである。では、〈出来事〉の外部にいた者たちは、どのように〈出来事〉の〈出来事〉性に触れることができるのか。それは、当事者が〈出来事〉に遭遇した痕跡を提示されることによって、外部の者が攪乱されることで達成される。

外部の者が攪乱されるとはどういうことかを考える前に、人を攪乱しないような形で〈出来事〉が意味づけされてしまう場合について本書で言及されている事例に沿って考えていこう。
朝日新聞の震災で息子を亡くした母親の記事では、物語は誰にでも共感可能な形でまとめられている。親子の愛情、記憶の中で生き続ける息子、永遠の命、といったヒューマンドラマに〈出来事〉が回収されることによって、その記事は読者にとって抵抗なく受け取れるものとなる(p8283)。インタビュアーに語った際、実は母親の語りには〈出来事〉を未だ意味づけできていないための多くの言い淀みや、差し挟まれる沈黙があったかもしれない。インタビュアーにも母親の説明し尽くせない悲しみを眼前にした戸惑いがあったかもしれない。しかし、そういった躓きが活字に反映されないことによって記事は外部の者を攪乱しない安全な消費物となる。
次に、クライストの短編小説『チリの地震』に移りたい。本来、人間社会の論理とは無縁の原因で発生するはずの地震が、長老の説教を通して、道徳的退廃、僧院の庭でのジョゼフェとジェローニモの冒瀆行為を原因とするものという偽りの意味づけを与えられる(p8788)。そして、偽りの意味の枠組みに沿って地震という〈出来事〉の暴力性を引き受けた人々は、ジョゼフェ、ジェローニモ、ホアンを殺害してしまう。しかも、人々は殺害によって偽りのプロットを完結させた後、記憶の中にいささかの傷跡も残していない(p91)
以上の二つの事例に見られるように、〈出来事〉に理解可能な意味を与えること。それによって人間が〈出来事〉との安全な距離を獲得すること。それが、本書で述べられている「人による〈出来事〉の領有」であるだろう。

以上、人を攪乱しない〈出来事〉の意味づけについて見てきたが、ではこれに対比される外部の者を攪乱するような〈出来事〉の表象とはどういうものなのか。同様に本書で言及されている事例に沿って確認していく。
まず、テレビドキュメンタリー『死者たちの声』についての記述を考えていきたい。番組に出演した元米軍大尉はレイテ島戦線を述懐し、「ヘル・ウィズ・ベイブ・ルース」と叫びながら突撃してきた日本兵のことを、不可解なそして不可解な故に忘れることのできないエピソードとして語る(p79)。戦争という暴力的な〈出来事〉が日本兵を決死の突撃に向かわせる時、その口を突いて出てきた言葉が意味づけできないものであったこと。その些細なことが元米軍大尉の記憶の中で落ち着く先を見つけることができず、数十年後の証言にも不可解なエピソードとして現れること。そのことに大尉の証言を受け取る私たちは攪乱される。「ヘル・ウィズ・ベイブ・ルース」が日本兵の言い間違いであったか、米軍大尉の聞き間違いであったかもしれないことはあまり重要ではない。単なる聞き間違いで済ませてしまってもよいように思えるものが、戦場の記憶と切り離せないものとしても米軍大尉の中に残っているということ自体が、私たちに不気味な印象を与えるのである。その〈出来事〉が大尉に刻み込んだ痕跡。そしてその痕跡の提示を受けるという私たちが遭遇するこれもまた一つの〈出来事〉。これらを通して私たちはようやく〈出来事〉の記憶を分有することになる。
次に、クライストの短編小説「チリの地震」についてである。殺害によって偽りのプロットを完結させた群衆たちとは対照的に、フェルナンド夫妻は暴力的な〈出来事〉をこれからも生きていかなくてはならない。なぜならば、暴力の犠牲者となったジョゼフェ、ジェローニモの息子であり、ホアンの身代わりであるフィリップは意図せずに暴力的な〈出来事〉を体現する存在となってしまったのであり、フェルナンド夫妻はそのフィリップをこれから育てていくからである。苦しい記憶を常に喚起し続けるであろうフィリップを育てていくことを、作品はフェルナンドのよろこびだと表現している(p88,91)。この矛盾。子を持つ喜びが別の子の死と表裏一体であること。この折り合いの付けられない状況を読者に突き付けて作品は締めくくられる。後味の悪い読後感が読者を地震という〈出来事〉の暴力性の中に引き込み、読者は〈出来事〉の記憶の分有を強いられるのである。
3つ目に、韓国人学生のレポート、そしてルティさんのインタビューについて触れたい。『ハイファに戻って』についての大学でのレポートで、自分のことを日本人だと思っていたが実は韓国人であることを知った時の経験について書かれたものを読み、岡真理は初めて祖国を自明のものとすることのできない難民的生と直接向き合うことになる(p99p102)。自身の身近に、日本という自分にとって自明なはずの祖国を実は難民として生きる人間がいること。このことが岡真理の足場を揺るがし、難民的生の現場である日本に生きる岡真理自身をも難民的生に引き込んでいく。そして、ルティさんのインタビューにおいても岡真理は同様の経験をしている(p105p112)。祖国はどこかと聞かれたルティさんが、ポーランドだと答える時、その答えの背景には、ナチスによるユダヤ迫害という〈出来事〉によって実現されなかった安定した生活、イスラエル国家がはらみ持つ暴力によって揺れ動かされるアイデンティティなど、多くの意味づけできない経験が存在している。〈出来事〉の記憶の意図しない到来を喚起する「ポーランド」という答えとともに、不意に見せたルティさんの涙には〈出来事〉の痕跡が刻み込まれている。その痕跡の提示を受けた岡真理も同様に〈出来事〉に巻き込まれることになる。ルティさんの涙や緊迫した場の空気にうろたえ狼狽すること。インタビュー原稿には反映されることの無かったこの経験は、しかし岡真理の祖国観を揺さぶり難民的生に引き込んでいるのである。

さて、以上のように本書を理解していった場合、〈出来事〉の記憶を他者に分有させ得る語りとして本書で紹介されているジャン・ジュネの「シャティーラの4時間」についての記述(p95p98)だけは、理解の枠組みに収まらないものとなってしまう。ここで、ジュネに「ご覧なさい」と語りかけている“他者”とは一体、何/誰のことなのだろうか。これまで、見てきた〈出来事〉の記憶の分有の事例においては〈出来事〉の当事者と証言者の間を第三項としての“他者”が媒介しているものは無かった。このジュネについての記述にだけに登場する“他者”というものはどのように解釈すればよいのだろうか。
実際にジュネが難民キャンプを歩いている時に、その場に誰かがいたのか。それとも、架空の声なのか。実際に誰かがいたとして、あるいは架空の声だったとして、それは〈出来事〉と証言者の関係の中でどのような位置づけとして一般化されるものなのか。
一つの仮説として、この“他者”というのは、〈出来事〉の当事者でも証言者でもない第三項を指しているわけではなく、〈出来事〉の当事者を指していると考えることもできる。つまり、死体からの語りかけを擬人化して表現しているのであり、〈出来事〉の当事者の持つ、証言者から見た他者性を強調するために、あえて“他者”という語を使用しているという可能性だ。
しかし、仮にそうであったとしても疑問は残る。本書の他の記憶の分有の事例においては、〈出来事〉を経験することで当事者の生が攪乱されていること、そして、その当事者に刻み込まれた痕跡に外部の者が触れることによって、外部の人間の生も攪乱されることが分有の条件となっている。しかし、引用されたジュネの文章においては当事者の攪乱された生の様態に触れることはできない。岡真理は、証言者たるジュネの主体性が挫かれていると述べているが(p97)、思いもかけず死体の指が切り落とされていることに気付くジュネの姿からも攪乱されていることを読み取ることはできない。本書の議論に従えば、表象に潜むなんらかの欠落や不自然さからそれを読み取るべきなのであろうが、少なくとも私にはそれを発見することはできない。指が切り落とされていることに気付いた後でも、「兵隊たちが見つけた鋏を面白おかしく使ってみたのだろう」という過不足ない説明が与えられてしまう。岡真理の引用した箇所が、ジュネのルポルタージュの性質を説明するには不適切だったのだろうか。そうであったとしても、では、なぜ岡真理はこの箇所を敢えて引用したのかと問いの形が変わるだけである。岡真理がこのルポルタージュに書き込まれているとするジュネの署名とは一体何を指しているのだろうか。

ジュネの「シャティーラの4時間」の中で「ご覧なさい」と語りかけている“他者”とは何/誰か。そして、その問いも含めた上で、ジュネのテクストとそれに対する岡真理の言及を、私たちは本書の議論全体の中でどのように受け止めればよいのか。それが私の提示する問いである。