2012年7月23日月曜日

『関係する女 所有する男』 2:応答 B



「差別と区別は違う」――私が常々思っていたことだ.男女を分けるのはよくない,と人は言う.しかしどんなに頑張っても,私が子どもをお腹から生むことは出来ない.そこには厳然たる事実として所謂「女性」との違いが存する.そのような違いを違いとして認識することは「差別」ではなく,最低限必要な「区別」であり,そのような区別さえも無視することは行き過ぎであろう.強引な差異化(差別)も暴力ならば,違いを無視した強引な同化もそれ同様,或いはそれ以上に暴力的なのである.だが問題は,どこからが差別で,どこからが区別にあたるのか―この1点につきる.というのが,私自身の考えである.


 本書を通底する斎藤環氏(以下斎藤とする)の態度も,その意味でとても共感できるものである.「差異を肯定しつつ差別を批判する(53)ような態度をジェンダー・センシティヴと呼ぶことを寡聞にして初めて知ったが,それ自体は穏和な,共感できる態度であるように思われる(私もこれに含まれる,と信じたい).しかし,繰り返すが問題はその先である.「どこからが批判されるべき差別で,どこからが肯定されるべき差異なのか?」…これに対して筆者が持ち出すのは,「関係」と「所有」である,というのが一応の回答であろう(この点で,差異の存在それ自体を否定するphase1の筆者は,明らかに本書を読み誤っている.差異と差別の違いこそが,まずもって斎藤の主張なのだから).

 第1章で提示したこの危うげな両義的戦略―差別の批判と差異の肯定―を第2章以下で斎藤は遂行する.まずは,脳の解剖学,或いは生理学といった外見を有する主張を次々に斥ける.そしてそのような消極的な主張を経て,第3章以下で積極的な主張に転じる.結婚,精神疾患,おたく,性愛といった場面場面で,如何に「関係」と「所有」が異なるものであるか執拗に繰り返される―以上が本書の構成であるが,しかし,著者のその両義的な戦略が成功しているかは,一考の余地があろう.何となれば,phase1において最も疑義を呈されていたことは,筆者の意図それ自体の不明瞭さであるからである.

 前者の差別批判については筆者には特に論じる能力を持ち合わせていないため,ここで問いを,斎藤の意図する「差異としての関係/所有」の議論それ自体の妥当性の有無にうつしたい.まず考えるべきは,phase1における疑問にもあるように,「所有/関係とは(…)男/女に代わるジェンダーの新しい呼び名」ではないか,という問いである.確かに,この点に関する斎藤の叙述には,曖昧さが残る.第3章以降,関係と所有について語るとき,斎藤は殆ど常に「男は…」,「女は…」という主語を,それぞれ「所有原理」,「関係原理」に割り当てて用いている.それゆえ,読者のなかには,斎藤の批判する「本質主義」(例えばかかる批判の例として232頁)に斎藤自身も捉われているのではないか,と嫌悪とともに指摘する方も少なくないのではないか,ということは容易に想像しうる.だが,他方で斎藤はそのような批判を巧妙に回避しているように思われる.例えば,所有原理と関係原理についてまとめた230頁の表において斎藤は,所有原理は「男に多い」,関係原理は「女に多い」としており,あくまで各々の原理は各性別に「多い」という傾向にとどまり,男女の本質をなすわけではないことを示している.更に,斎藤は 終章においても「仮に『男性』『女性』と述べていることは,すべて『個人』と読みかえてもらって構わない.」(240頁)としており,ここでも男性と女性に各原理が本質的に結びつくわけではないことが示されている.寧ろ,斎藤の眼目は「男」「女」の違いをも解体して,より根底に存在する「所有」「関係」を浮かび上がらせるということにあるのだから,男女と本質的に結びついてしまっては困るのである.では何故,斎藤はこのように不明瞭な叙述を行ったのであろうか.

 その答えは,「精神分析」という手法を用いたということにある.精神分析という手法の有意性がどこにあるのか,斎藤は多くを語らないため筆者には精確に理解できなかったが(彼の読者ならばお馴染みのことなのかもしれないが,私は彼の著作をはじめて読むのでかかる方法論に慣れていない),臨床における観察と経験によって帰納的に原理或いは命題を導出するという姿勢であるように私には思われた(斎藤はおたくについて述べる際,「一般的事実を検討することで『命題』を引き出すことができる」としている.155頁).従って,斎藤が自らの論拠とするものは,彼が出会った人であり,そして数々の「テクスト」である(後者は「臨床」ではないが).第3章以降,関係原理の主語が女性であり,所有原理の主語が男性というように専ら結びつけられて論じられているのは,前者は女性が有することが「多く」,後者は男性が「多い」ゆえに, 関係原理を述べる際には女性を主語に,所有原理の際には男性を主語にしているだけのことであろう.
(余談だが,この誤解は『もうひとつの声』において「ケアの倫理」について述べたキャロル・ギリガンに対して,それが本質主義であると寄せられた批判と構図が類似する.更に付け加えれば,斎藤の「所有」/「関係」の構図は爾来現代アメリカの政治哲学において論じられてきた「正義の倫理」と「ケアの倫理」の一変奏にすぎないように思われる.しかしこれはテクストを離れるため詳述は避ける.)

 だが,このように斎藤の意図を理解したとしても,斎藤がこの意図を達するために用いた論証過程には,多くの難が残存することはなお問題と言いえよう.例えば,所有と関係が本質主義的要素でないのであれば,斎藤はより論証過程自体に「所有する女 関係する男」(タイトルを捩れば)を登場させる必要があったろう.更に,帰納的論証においては,常にその議論が妥当しうる外延が問題となろう.換言すれば,自らの経験に基づく議論がどこまで一般性を有するかを考慮しなくてはならない,ということである.例えば,男性のひきこもりの原因として, 斎藤は「良い学校で良い成績をおさめ,良い大学を出て良い仕事につくこと」(115頁)へのプレッシャーをその原因としてとりあげるが,世の男性が悉くこのようなレールにのっているわけではない.寧ろそのような男性のほうが少ないのではなかろうか.また,性愛に関する議論では,若者の性生活が活発である場合ジェンダーごとの差異は見えにくいが,「さらに成熟し,あるいは年老いていくにつれて,ジェンダー間における性意識の違いに驚かされるだろうことは,ほとんど時間の問題だ.(169-170)と述べているが,これではまるで議論になっていない.この場合,若者とより年配の方々のジェンダー間性意識は異なっており,若者の感覚に照らせば,「所有」/「関係」なる原理は妥当せず,誤った議論であると主張できるし,これを反駁するのはそこまで容易ではない.しかしこれに対する斎藤の議論は,「お前らは間違っている.年をとればその誤りがわかる.」というものであり,自らの議論を支える論拠としてはあまりに乏しいと言わざるを得ない.

 そして,彼の議論の最大の問題は,国や文化的な差異を当然のように無視してよい,とするところにある.例えば「国や文化によってそれほど差はない(115),「こうした価値観は文化を問わず広く共有されているはずだ.」(169頁)などである.この主張自体の正誤について筆者は語る言葉を持たないが,少なくとも斎藤のようにこの短文でもって論証を終わらせてよいとするような単純なお話ではないはずである.彼の議論が文化をこえた普遍性をもつとするためにはそれを積極的に論証する必要があろうが,彼の議論にはそのようなものは一切見当たらない.斎藤の議論は以上のように,原理,命題として導出するには議論の精密さを欠いた論証のうえになりたつ,あまりに安易な一般化である,と言えよう(そのほかにも眉をひそめるような乱暴な論証は散在するが,冗長になるため割愛させて頂く).

 まとめよう.筆者は,「ジェンダー・センシティヴ」たらんとする斎藤の態度自体は肯定しており,また積極的に肯定しうる差異を導出せんとした彼の議論―「関係」/「所有」(これは性別に本質的に附随するものではない!)―も仮説としては興味深いものを秘めていると考える.しかし,それを導出する論証過程に多大な難があり,ゆえに「蛮勇」をふるっているとの謗りを免れない.私が「所有」/「関係」原理を肯定するには,斎藤の新作を待つ必要があろう.