※今回は、phase1担当者とphase3担当者は同一人物である
phase2で述べられている「コンテクストの無いところに他者どうしをつなぐコンテクストを構築」できてはじめて「冗長表現」を「適切に」使用できるということは、おそらくその通りであろう。ホスピスの癌患者の奥さんを例にとると、奥さんの薬に対する不満の噴出は冗長表現の適切な使用ではない。奥さんが配偶者の境遇に感じている心情の表現として、薬への不満を語るということは全く論理的ではない。字面の上では。そして、論理的ではないこの表現は奥さん-看護師間のコンテクストにおいては適切なものとなっていないため、看護師たちには伝わらず、クレーマーなのではないかと受け止められてしまう。さらには、両者の間に奥さんの心情の受け皿となるコンテクストが無いだけではなく、奥さん自身の中にも「なぜ自分の夫が死んでいかなくてはならないのか」という思いを語れるコンテクストが構築されていない。そのために、伝わらない表現を修正することなく何度も繰り返してしまう。
しかし、ベテラン医師の中には薬への不満の申し立てをやり場の無い感情の噴出として解釈するコンテクストがある。おそらく、自身のそれまでの医者生活や同僚から聞いた話などから、死を間近にした患者の家族がどのような状況になりやすいかを経験的に知っていたのであろう。「『コンテクストの無いところに他者どうしをつなぐコンテクストを構築』できてはじめて『冗長表現』を『適切に』使用できる。」というphase2の記述の通り、まさにベテラン医師の中に既にコンテクストが構築されていたからこそ、はじめて奥さんの表現は適切に解釈されることとなったのである。
医師は奥さんの感情の受け皿となるべきコンテクストを先行的に理解していたわけだ。しかし、この先行的な理解が適切な理解であるという確信は、多くの場合は先行的に得られているわけではないだろう。先行的な理解に基づいた表現を実際に試してみた結果、予想通りの反応が相手から返ってくるということによって、先行的に理解していたコンテクストが適切であったという確信が得られる。「奥さん、辛いねぇ」という声かけに「今、そんな話をしてるんじゃありません!」という反応が返ってくる可能性はゼロではない。phase2で述べられるジレンマを突破してコミュニケーションを成立させるためには、とりあえず先行的な理解をあてにして表現を投げかけてみるしかない。おそらく、あることとあることの間のつながりが完全に一分の隙もなく論理的であるということは、数式と数式の間のつながりとか、あるいは記号論理学の世界でしかあり得ない。日常的な出来事と出来事の間や物言いと物言いの間をつなぐコンテクストはいつだって部分的に論理的で、部分的に飛躍を含まざるを得ないだろう。その飛躍が妥当であったかは、コミュニケーションの相手の反応を待たないと確かめようがないのである。その飛躍は、論理的な演繹ではなく経験からの帰納で導かれるのであるから、その飛躍を含んで成立する先行的な理解の精度と、そしてコミュニケーション能力を高めるためには経験を蓄積するしかないというのは、身も蓋もないが妥当な結論だと私にも思われる。