本書については、phase1で担当者が冒頭で述べる通り、全体的にフワッとした議論になっていて、なおかつ、全体を通して「コミュニケーション」という言葉がひとつの主題となってはいるものの、議論がひとつの方向性を向いているわけでは無かった。その点において、phase1担当者「問いらしい問いをひねり出すことはでき」なかったというのも理解できる。こうした議論を「グローバル(球形的、総合的)」と呼ぶならば、それに対して「リニアー(直線的、各論的)」な議論というものが存在する(その最たるものが学術論文だろうか)はずだが、グローバルな議論に対して「問いらしい」リニアーな問いをなすのは重箱の隅をつつくような行為になりがちだし、かといってグローバルな問いをなすのもテクストとの共振度が大きく触れがちなので、難しいものがある(と、個人的には思う)。
さて、phase1担当者の見出した問い(本書への応答と言ったほうが良いだろうか)は、リニアーだが毛糸玉から糸を引き抜くようななるほど感があった。ちょっと分からないなというところがあったので、そこを起点に考察したいと思う。
phase1担当者の主張(ないし本文理解)を私なりにまとめると、
主張)冗長表現の使用は、(1)異なるコンテクスト間を摺りあわせるだけでなく、(2)コンテクストの無いところに他者同士をつなぐコンテクストを構築する可能性がある。
異なるコンテクスト間の摺り合わせとは、言い換えればコンテクストの共有であり、その段階は言わば自らの演じるべき役割=ペルソナが不安定な前ペルソナ的段階と言える。本書で明示的に述べられているのは、冗長率の使用が主題に係るコンテクストの共有―すなわちペルソナの選択に寄与するという点であるが、いっぽう田中先生やホスピスの例からは、表現に適切なペルソナを有していない場合、共有可能なコンテクストさせ見出せない場合においても冗長率の操作がコミュニケーションの土台を提供することが示唆されている。
まとめすぎの感があるものの、おおむねこのようなことを言っているだろうか。(1)はほぼほぼ本文の言い換えなので理解できたものの、(2)がわからない。何となくわかったつもりになるけれど、またわからなくなる。どうしてかというのは、「冗長率」という言葉のマジックだ。著者が本書で使用する「冗長」という言葉は、通常われわれが使用するより広い意味で使われている可能性が高い。そのことを示唆する文章が以下の引用だ。
『日本の国語教育は、この冗長率について、低くする方向性だけを教えてきたのではなかったか。「きちんと喋れ」「論理的に喋れ」「無駄なことは言うな」……だが、本当に必要な言語運用能力とは、冗長率を低くすることではなく、それを操作する力なのではないか。』(p110)
この文章から推測できる通り、冗長率の高い会話とは、「きちんと喋っていない」(これはあいまいだが、間投詞が多い会話はこれに当てはまるだろう)あるいは「論理的でない」あるいは「無駄なことが多い」会話のことである。一般的に冗長とは会話に無駄が多くくだくだと長いことを言うと思うが、そのことと論理性の有無はそれほど関係が無い。いっぽう本文中では、論理性の無い会話こそ冗長率の高い会話であると言っているように見える。ここが理解の妨げとなっていたのだろう。
私の理解では、冗長の範疇のうち「きちんと喋っていない」と「無駄なことが多い」は、どちらかと言えば(1)コンテクスト間の摺りあわせに必要な能力であり、「論理的でない」は、(2)コンテクストの無いところに他者どうしをつなぐコンテクストを構築する要素を持つものと解釈される。ただし、ここでの「論理的でない」は、「字面の上では」という接頭語が必要である。なぜなら、田中先生の例も、ホスピスの例であっても、その場の言語によって表出されるコンテクストだけでは全く論理的な会話では無いが、著者がその背景を「説明できる」という事実からも分かるように、経験を基に推量可能な帰結であるという意味においては全く論理的と言えるからだ。phase1担当者は「冗長表現の適切な使用」が、「コンテクストの無いところに他者どうしをつなぐコンテクストを構築」する可能性があると述べるが、これは実はここでは逆転していて、「論理性の無い表現」を「冗長表現」とする限りにおいては、「コンテクストの無いところに他者どうしをつなぐコンテクストを構築」できてはじめて「冗長表現」を「適切に」使用できるという風に私は解釈した。実は、言語表現によってコンテクストが生み出されたと感じるには、先行的に相手のコンテクストを理解している必要があるのではないだろうか。これは一見ジレンマ(Aを実現するともうBが実現するが、いっぽうBを実現するにはAを実現しなければならない)のように感じられるが、それほど非現実的な話でもない。先に述べたように、「論理的でない」会話というものは経験の積み重ねによって推量的に生み出されるコミュニケーションであり、今まで自分が接してきたコンテクストとの共有点が見いだせれば、相手のコンテクストは類推可能であるからだ。とすれば、「論理性の無い表現」としての「冗長表現」がそのまま高い言語運用能力として発揮されるには、その前段階におけるコミュニケーション試行の蓄積を第一の優先順位として持ち込むべきではないだろうか。
こう言ってしまうと、結局コミュニケーション能力を高めるにはコミュニケーションを積み重ねるしかないということになってしまうのだが、実際個人的にはそうとしか思えないし、妥当な結論のように思われる。
補)上記とはちょっと関係がなくなるが、本書およびphase1担当者の文章を一読したあと、「これはどうだろう」と思ったことがある。それは自閉症におけるコミュニケーションの問題だ。アスペルガー症候群や高機能自閉症のような症状はコミュニケーションという事象にとって非常にマージナルな要素を孕んでおり、問題の枠を定めたり本質を見極めたりするのに有効な切り口になると思う。ただしこの視点は自閉症そのものに対する高度な知識を有していない限り議論は難しいし、そもそも本書は「脳に障害の無い人々」(p185)を対象としているので、少し本文の内容からは逸脱してしまうだろう。ただし、思考として非常に興味深いものであるには違いないので、言うだけ言っておく。