本書を読みあれこれ試行錯誤してみましたが、正直な話、問いらしい問いをひねり出すことはできませんでした。そこで、本書の中に出てくるいくつかの主張の中で自分に響いてきたものに焦点を当て、そこに見出せるつながりについて記述してみました。本書には脱線が多く、またいくつか展開される主張の間の連関はあまりはっきり明示されません。(むろん、本書は学術論文ではないのでそのこと自体は全く問題になるようなことではありません。)明示されない分、そのつながりについて読者が考えられる自由度は高いはずです。私が問いらしい問いを出せなかった代替物として、phase2担当者に問いかけたいことは、私が見い出したつながり、本書にちりばめられたリソースを私という文脈の中に置いてみて出てきた結果物、それらは同じく本書を読んだあなたにはどう見えるか、ということです。あなたの読書経験から、またあなたの日常経験と読書経験の交差するところから見て、私の文章はいったいどのように映るでしょうか。
第四章での冗長率の話から出発したいと思います。平田は話し言葉のカテゴリーをいくつか挙げた後、その中で冗長率が一番高くなるのは、近い文化を持った者同士の“会話”ではなく、異なる価値観や意見を交換し合う“対話”であると述べます。(p106)異なる価値観を摺り合わせていくにはどうしても当たり障りのないところから入らなければいけないからです。そして、コミュニケーションとは論理的で簡潔で冗長率が低いものが良しとされがちですが、実は冗長率を時と場合によって操作できることこそが言語運用能力の高さなのだと主張します。(p110)この点について本書ではあまり深入りした説明がされていないので、ここで冗長率と“対話”の関係について考えてみましょう。なぜ、異なる価値観の摺り合わせにおいて冗長なコミュニケーションが必要となるのでしょうか。まず、当事者同士で話される主題について抱えているコンテクストが違うからでしょう。『東京物語』の引用部(p107)においては、「東京に住む子供たちを訪ねる」ということについて老夫婦が感じている意味は細君は推測でしか知り得ないし、老夫婦が東京に行くことを細君がどう感じているかは老夫婦は推測でしか知り得ません。共有するコンテクストが当初は見えないために、当たり障りのない発話を繰り返しながら探りを入れていく必要があります。共有するコンテクストがあれば、その方向性の中で話を展開させることができますが、なければ筋となる前段階の点を置いていかなくてはいけません。点と点の間のつながりが徐々に生まれてくれば、そこにコンテクストの共有部分を見い出すことができます。この作業は共有された方向性の中で筋を推進させるものではないので、冗長率は高くなるというわけです。
自身の持っているコンテクストが他者と共有されていることを、そのことに無自覚になるくらい当然だと思っていること。そういう状況が我々の生活にはあると思います。そのような状況は、そのコンテクストにおいて使っているペルソナが安定している状況だと思われます。ペルソナが演じるべき役割である(p219)ということは、その演じられる劇の登場人物としての他者、役割によってつながっている他者とコンテクストを共有しているということです。上記の冗長なコミュニケーションでの摺り合わせにおいては、当事者がそこで使うべきペルソナはまだ安定していません。手持ちのペルソナでどれなら使えるか、あるいは使えるペルソナがないならそこで新しく生み出せるか、そういう前ペルソナ的な段階であるわけです。
ペルソナを選べる、生み出せるということは、相手と共有可能な筋書きを探せるということです。しかし、前ペルソナ的な段階から抜け出せる萌芽も見い出せない状況もあり得ます。本書の事例で挙げるなら、田中先生が大好きな子供(p173)や、ホスピスの末期癌患者の奥さん(p178)などです。田中先生が大好きな子供は、その感情自体ではなく感情を体験した状況を描写することしかできません。ホスピスの末期癌患者の奥さんは、自分の辛さの適切な表出方法を持たず、薬への疑問という形でそれを噴出させてしまいます。いずれも、それらの感情の表出を求められる役割とするようなペルソナ、またそのペルソナを包含する筋書きを手持ちのレパートリーとして持っていないからです。しかし、ほんとうにコミュニケーションの手を差し伸べられるべきは、まさにそのような状況であるように思われます。
冗長率を操作すること、話の筋を推進させることよりも共有可能なコンテクストの構築にまずは優先順位を置くこと。この技術は上述のような前ペルソナ的な段階から抜け出せない感情に適切なコンテクストを与え、他者とコミュニケーション可能な地平に連れてくるための方法論にもつながってくるのではないかと思います。奥さんが泣き崩れた「奥さん、辛いねえ」というセリフ(p179)には、薬の効用についての話を進める要素は何もありません。しかし、奥さんの中にあるおそらく自身でも「辛さ」と自覚していないであろう名づけ難い感情に対して、他者に「辛さ」として認識させ得るコミュニケーションの地平を与えています。このように冗長表現の適切な使用によって、異なるコンテクスト間を摺り合わせるのみならず、コンテクストの無いところに他者同士をつなぐコンテクストを構築するということも、本書から派生する可能性として考えられるのではないでしょうか。